弱い犬ほどよく歌う。

音楽依存症の男子大学生が、横から目線で音楽と日常を書き流す。

AI時代を、若者と芸術はどう生きるか―岡本太郎の『言葉』をよむ―

 

 第二次世界大戦での敗戦後、10年を待たずに日本は高度経済成長期を迎え、驚異的な復興を遂げた。その輝かしい復興の姿を象徴するイベントの一つが、大阪で開催された日本万国博覧会大阪万博)である。そして、大阪万博を象徴する建造物に、岡本太郎がデザインを務めた「太陽の塔」がある。すなわち、「太陽の塔」はその名の通り、高度経済成長期の日本を照らす太陽そのものであったといえるだろう。

太陽の塔の頂部には金色に輝き未来を象徴する「黄金の顔」、正面には現在を象徴する「太陽の顔」、背面には過去を象徴する「黒い太陽」の三つの顔が表現されている。博覧会の期間には、地下展示に「地底の太陽」なる顔も展示されていたという。この四つの顔を通して太郎は何を表現しようとしたのか。ここは当然議論の分かれる点である。

私は、過去を示す太陽が黒く、現在を示す太陽も装飾のない素朴な姿をしているが、未来を示す太陽だけは黄金に輝いていることに、一筋の希望を感じた。「暗い過去を経験し、その延長の薄暗い今を過ごしていようと、未来は金色に輝かせよう」。私が作品を見て抱いた、この感情だけを読み上げても、「教科書のような、簡単な綺麗事」だと嗤笑されるだろうか。しかし、決して「教科書通りの綺麗な塔」ではない太陽の塔の姿から感じられたそのエネルギーを、私は簡単な綺麗事として片付けることは出来ない。

 

時は移り、今日は2019年である。太郎がかつて太陽の塔で金色に表現した未来が、今、この時だとするならば、私たちはこの今現在が金色であると、胸を張って言えるだろうか。いや、言えそうにない。科学や医学の進歩はめざましいものだし、日本に限って言えば、第二次世界大戦での敗戦以降は、戦争もしていない。しかし、そのような成長の裏返し、いわば光と影のように、地球温暖化少子高齢化、冷たい外交といった、大きな社会不安が顔を出し続けている。

 

AIの技術の進歩もその「光と影」の一つであろう。AI技術が発展するにつれ、より一層私たちの身近な所にまでAIが関わることになる。社会はより一層AI化が進み、より人々の負担を軽くするだろう。しかし、それは同時に人間の雇用分野を狭めることにもなる。『人工知能と経済の未来 2030年雇用大崩壊』の著者である駒澤大学井上智洋准教授は「汎用AIが2045年にはかなり普及しており、残っている雇用分野は(1)クリエイティブ系(2)マネジメント系(3)ホスピタリティ系に限られ、就業者数は約1000万人になる」と予測している。若者は、この未来からどのように金色を探せばよいのだろうか。

 私が未来に金色を見出した内の一つが「芸術」分野である。先述の井上氏が分類した「クリエイティブ系」に芸術は分類される。AIによって雇用分野が狭まっても、芸術は息を続けるはずだ。芸術作品を作り出すAIも存在するが、人間は芸術から心を見出そうとするから、AIではなく、心ある人間が作った芸術作品への需要は、尽かさないだろう。

 

 では、これからを生きる若者と芸術はどうあるべきか。ここで、太郎の価値観を引用する。太郎は「あなたの職業は何か」と聞かれた際に「人間だ」と答えた。そして、太郎は、「芸術の形式には固定した約束はない。技術の進歩に応じて時代毎に常に新鮮な表現をつくっていくべきである」と主張していた。

 太郎の言うように、AIがAIとして生きるならば、若者は「人間」という職業をより意識して生きるべきなのではないだろうか。そして、芸術は、技術の進歩と時代の流れを柔軟に受け止めるべきではないだろうか。

 

技術の進歩と時代の流れの最たるものが、インターネット及びSNS文化の発展であろう。様々なネット上のプラットフォームで、自作のイラスト、写真、映像が、不特定多数のユーザーによって投稿されている。「インスタ映え」たる言葉が世の流行語となり、「Youtuber」が子供たちの憧れの職業となったことがネットカルチャーの発展を表している。ネットカルチャーにおいての営みは、紛いもなく、「人間の仕事」そのものであり、そして、ネットカルチャーも、れっきとした「芸術」形式の一つである。今でこそ、インスタ映えという価値観やYoutuberの活動が白い目で見られることも多いが、かつて歌舞伎が「悪態の所作」と揶揄されていたように、文化の草創は混沌としたものである。混沌の中から洗練された秩序が芽生え、成熟した文化を築く。

 

AIの進歩が若者の雇用分野を狭め、少子高齢化の進行により若者はゆとりのない社会を生きることになる。そんな未来だからこそ、芸術という分野に、ビジネスとしての新たな雇用の可能性と、娯楽としてのゆとりを求めたい。そこに、金色の太陽がある。

 

2019年。高度経済成長はとうの昔に終わり、昭和はおろか、平成の時代までもが幕を下ろした。高度経済成長期に開催された1964年大会以来、二度目となる東京オリンピックの開催が、翌年に迫る。さらに、2025年には再び大阪で万博が開催される。高度経済成長期の時代からの周回のようなロマンを感じずにはいられない。かつての「太陽の塔」のような、この国の光となりうる象徴が再び現れることを期待してしまう。現代の「太陽の塔」は、もしかすると、インターネットの中にあるのかもしれない。

 

参考文献

『誰もが「岡本太郎になれる」時代、決め手は熱量』藤 和彦(2018)